母との別れと継母との確執

——幼少期からの葛藤と自立への道——

母との別れ
幼少期に親が離婚し、母親が家を出ていきました。私たちは母がなぜ出ていかなければならなかったのか、その理由を知らされることはなかったです。ただ、母が家を出ればもう戻ってこないことはなんとなくわかっていました。悲しくて、寂しくて、「行かないでほしい」と願いながら、その背中を追いかけていました。母はタクシーに乗り込み、やがて走り去ってしまいました。その後、私はただその場で泣いていたことを覚えています。喉の奥がひりひりと痛み、涙は止まらなかったた。どこかであきらめの境地に達していたと思います。
 もう、母との別れを受け入れるしかありませんでした。祖母や叔母が支えてくれたおかげで、悲しみや寂しさをこらえながら、ただ毎日を過ごしていました。それでも、母の姿を夢に見ない日は少なくなかったと思います。どこかで「迎えに来てくれるかもしれない」と、幼い心はまだ期待していたのかもしれないです。

新しいお母さん
 やがて、父が再婚し、新しい「お母さん」となる人が家にやって来ました。しかし、私は継母を「本当の母」とは思えず、「お母さん」と呼ぶことに強い抵抗がありました。」   父から「お母さんと呼べ」と言われても、なかなか口に出せませんでした。
 あるとき、足首をつかまれ、窓の外に逆さづりにされて怒鳴られたような記憶があります。それがきっかけで、私は嫌々ながらも「お母さん」と呼ぶようになりました。そして、自分の心を押し殺すことに慣れていくようになったと思います。

崩れていく家族
 父は以前から胃潰瘍を患っていましたが、それを放置していました。さらに、新しい「お母さん」にも病気のことを伝えていなかったようです。ある日、症状が悪化し、医師から入院と手術が必要だと告げられました。もはや隠し通すことはできず、それをきっかけに生活費の問題も浮上しました。その頃から、夫婦喧嘩が絶えなくなりました。最初は些細な口論だったものが、次第に怒鳴り合いへと発展し、家の中には常にピリピリとした空気が漂っていました。継母はちょっとしたことでもヒステリックに怒るようになり、その怒鳴り声が響くたびに、胸がざわつきました。怒りと不満が渦巻く家の中にいるだけで息が詰まり、もはや安らげる場所ではなくなっていました。

継母との関係
新しい「お母さん」は毎日仕事に出かけていたため、私たちは掃除や食後の皿洗い、冬になれば朝晩の雪かきなど、さまざまな家事をしなければならなかったです。少しでも手を抜けば、甲高い声で文句を言われるのが常でした。「自分が働いているのだから、家事をやるのは当たり前」と言わんばかりの態度。その声を聞くたび、どうしようもなく苛立ちが募っていきました。

奪われた給料
極めつけは、バイトの給料を継母に取られたときでした。「お前にはこのお金は必要ない」そう言いながら、私のバッグから無理やり給料袋を奪い取り、部屋を出ていきました。その瞬間、怒り、悔しさ、情けなさ——さまざまな感情が一気に押し寄せ、「もうこの家にはいたくない」という思いが募っていきました。

自由への一歩
そして、就職を機に実家を離れることを決意。継母とも距離を置くことができたことで、張り詰めていた心がふっと緩み、長い間まとわりついていた重たい鎖がようやく外れた気がしました。胸の奥に渦巻いていた怒りや悲しみも、少しずつ霧が晴れていくように感じました。「やっと、自由になれた——」そう心の中でつぶやく自分がいました。

小さな命とともに

   ——流産の悲しみと夫の支え——

小さな命との出会いと別れ
 妊娠が分かり、おなかの赤ちゃんが映ったエコー写真を夫に見せました。まだまだ小さく、お魚のような姿をしていました。その愛おしい姿に、二人で赤ちゃんができた喜びに浸っていたのも束の間、妊娠3か月で流産してしまいました。
 入院中、生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声が聞こえるたびに、胸が締めつけられるように苦しく、どうしようもない悲しみに襲われました。布団を頭からかぶり、声を押し殺して泣く日々。失った命を思うたび、心にぽっかりと穴が空いたようでした。

支えられながら歩む日々
 そんな私のもとへ、仕事帰りに毎日病室へ来てくれる夫。その優しさに触れるたび、涙があふれました。何も言わず、ただそばにいてくれる——それだけで救われる気がしました。
 夫に支えられながら仕事に復帰し、同僚にも励まされるうちに、悲しみは少しずつ心の奥にしまわれていきました。そして、やがていつもの自分を取り戻すことができたように思います。
 それでも、あの小さな命のことを忘れることはない。きっと、これからも——。

父の死と継母との距離

    ——揺れる感情と向き合う覚悟——

遠ざかる父との絆
 流産を経験したものの、再び妊娠し、無事に出産。その5年後にはもう一人を出産し、二人の子どもに恵まれた。子どもを連れて数年に一度は帰郷していましたが、継母への複雑な感情や仕事の忙しさもあり、連絡を取ることは次第に減っていきました。父ともほとんど会話を交わさなくなり、それとともに、いつの間にか父への感情も薄れていきました。
 やがて父は認知症を患い、カテーテル治療のために入院しました。しかし、治療を受けていることすら理解できず、点滴の針を抜こうとすることがあったようです。それを阻止するための付添を頼まれたことがありますが、それが継母だったのか弟だったのか、よく覚えてはいません。

父の最期と遠のいていた想い
 父と私は、継母と暮らし始めてからほとんど会話を交わさなくなり、それと同時になぜか父への感情も次第に薄れていきました。転院したその日はとても元気そうにしていたらしいですが、その当日によくわからない死因で父が亡くなりました。悲しいという気持ちは感じなかったのですが、知らずに涙が頬をつたっていました。
 父がいなくなったことで、時間が止まっていたことに気づきました。私は父を遠ざけ、感情にふたをして生きてきたのかもしれない。だが、あの日流した涙が、凍りついていた心を少しずつ溶かしていきました。

避けられない選択と覚悟
 父が亡くなった後、継母と弟の二人での生活は口喧嘩が絶えず、やがて弟は実家を出ていきました。しばらくしてから、継母はそのことを私に知らせてきました。
 それはそれで、お互いにとって良い選択だったのかもしれない。しかし、継母の年齢を考えると、いずれ一人で暮らすのは難しくなるだろう。そのとき、手助けをするのは自分しかいない——。そう自覚し、嫌でもやるしかないと覚悟を決めました。

介護を通じてつながる命

    ——別れと絆の記録——

二人の母と向き合う日々
 年月が経つうちに、夫の母は夫の父の死後、孤独からうつ状態になり、さらに認知症や圧迫骨折を抱えながら、介護支援を受ける生活を送るようになりました。私は通院の付き添いや薬の管理、身の回りの世話のために、頻繁に足を運ぶようになりました。
 翌年、継母も圧迫骨折で入院し、一人暮らしが難しくなったため、自宅近くのアパートを探し、介護支援を受けながら生活することになりました。こうして、二人の母の介護に追われる日々が始まりました。

継母の新生活準備と蘇るわだかまり
 家電やベッド、さまざまな生活用品を揃え、継母がアパートで暮らせるよう準備を進める間、彼女は数日間、私の家に寝泊まりしていました。骨粗しょう症に少しでも良い食事をと思い、心を込めて作った料理を出したところ、継母は「まずい…」とぽつり。口に合わなかったのかもしれないが、そんな風に言わなくてもいいのに——そう思うと、若い頃に感じていたわだかまりがふつふつと蘇ってきました。それでも、アパートに移るまでの辛抱だと言い聞かせている自分がいました。

感謝にも聞こえた継母の後悔
 継母がアパートで一人暮らしを始めた当初、わだかまりは消えてはいませんでした。それでも、介護のため顔を合わせるうちに、少しずつ会話が増えていきました。私が家を出てから父が亡くなるまでのこと、うつ病で実家に戻っていた弟との生活、さらには父と結婚する前の継母の若い頃の話——。
 あるとき、継母はふと、ずいぶん前に亡くなった母親のことを思い出し、「しんどそうに歩いて買い物に行く姿を見ても、何もしてあげられなかった」とつぶやきました。その言葉には、後悔の念がにじんでいました。けれど、その声色はどこか優しく、まるで私への感謝の気持ちが込められているようにも聞こえた。その瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなったのを覚えています。

わだかまりを越えて、家族へ
 そんな話を重ねるうちに、自然と気持ちが打ち解け、一緒にいることが心地よいと感じるようになりました。継母の若かりし頃の恋愛話を聞いたときは、まるで友達のような気分になり、不思議な感覚を覚えたものです。
 若い頃、私は継母に対して憎しみや怒りを抱えていました。しかし、実家を離れてから35年。年老いた彼女の身の回りの世話をし、通院に付き添い、一緒に散歩をする日々のなかで、さまざまなことを語り合うようになりました。支えるうちに、心が通い合い、ようやく本当の意味で「家族」になれたと思いました。しかし、そんな穏やかな時間は長くは続きませんでした。

迫られた決断、穏やかな最期のために
 継母の介護生活が始まって4年。ガンが見つかり、即刻入院することになりました。このままだと余命は3か月――そう宣告されました。
治療を受けることも考えましたが、医師からは年齢的にも負担が大きく、厳しいものになるだろうと言われました。病気は待ってはくれません。
早急な決断を迫られたものの、相談できる相手もおらず、一人で悩みました。しかし、治療による苦しさを抱えながら過ごすよりも、穏やかにその日を迎えるほうが良いのではないか——。そう考え、治療を受けない決断をしました。
そして、継母は緩和ケア病棟に移ることになりました。

継母の最期と心に残る記憶
毎日病室へ会いに行っていましたが、日に日にやせ細り、声を出すのもやっとの状態でした。枕元に座り、「大丈夫?」と声をかけても、かすかにうなずくだけ。痛みをこらえているのか、まぶたを閉じたまま、ほとんど言葉を発することはありませんでした。
その姿を見るのが辛く、悲しかったです。かつて抱いていた憎しみや反発心は、もうどこにもありませんでした。代わりに、自分の中にまったく違う感情が生まれていることに気づき、戸惑いさえ覚えました。
「もっと早く、こうして寄り添えていたら——」
そんな後悔が胸をよぎるたびに、手を握ることしかできませんでした。細くなったその手を優しく包み込みながら、私は何度も心の中で問いかけました。
「お母さんは、今、何を思っているの?」
けれど、その問いの答えが返ってくることはありません。ただ、握った手のぬくもりだけが、唯一のつながりのように感じられました。
そして、担当医の宣告どおり、3か月後に継母は他界しました。
もっと継母のためにできることがあったのではないか——。そう思い返すたびに涙がこぼれました。しかし、日々の忙しさに追われるうちに、こみ上げる悲しみは次第に薄れていきました。それでも、あのとき交わした言葉や、笑い合った時間をふとした瞬間に思い出します。

夫の母との別れ、穏やかな最期
その後、夫の母は老人ホームで7年間過ごしました。コロナ禍で面会が制限される中、会えない日々が続いていましたが、ようやく再会できた頃には体調が悪化していました。以前のように会話を交わすことも難しくなっていたが、手を握ると、かすかに力を込めて握り返してくれました。その小さな反応に、まだつながっているのだと感じ、涙がこみ上げました。そして、静かに95年の人生を終えました。穏やかな旅立ちでした。

愛犬との別れ、がんとの闘い

    ——それでも前を向いて——

愛犬との最期の時間
 愛犬に心臓の病気が見つかり、手術の計画まで立てていました。しかし、それを待たずに亡くなってしまいました。
 その朝は、いつも通り散歩に連れて行き、ドッグフードを用意しました。日中は仕事の関係で人の出入りがあり、とても忙しい一日でした。
 夕方、朝に用意した飲み水の量が減っていないことに気づきました。いつものように動き回ることもなく、ただ黙ってお座りをしている愛犬の様子に、何か異変を感じました。急いで動物病院に連絡すると、「すぐに連れてきてください」と指示され、私は車で向かいました。


愛犬との別れの瞬間
 腕の中の愛犬は、酸素が行き届かず、ぐったりとしていました。しかし、途中で突然立ち上がると、助手席の前の景色をじっと見つめました。まるで何かが見えているかのように——。
 次の瞬間、ふっと力が抜け、そのまま崩れ落ちました。それが、愛犬の最後でした。
 ——すぐそばにいたのに……。もっと早く気づいて、もっと早く病院に連れて行っていれば……。

残された悲しみと虚しさ
 その後も、いつもの場所に、いつものように座っている気がして、思わず名前を呼んでしまいます。でも、もう駆け寄ってくることはない——。そう思うと、胸が締めつけられるようでした。
ふとした時に今でも足音や鳴き声を思い出します。

突然の病の宣告
 そんな中、自分の身体に違和感を覚えるようになり、病院で検査を受けた結果、——「がんです」医師にそう告げられた瞬間、「まさか、自分が?」という気持ちと、「やっぱり…」という漠然とした不安の両方が押し寄せました。
 自分も死ぬのか——。そう思ったのも束の間、「手術を受ければ、また元のような生活を送れるようになる」「まだやらなければならないことがある」と考え、手術を受ける決断をしました。

過酷な手術と入院生活
 手術は8時間近くに及びました。麻酔が切れて目が覚めたとき、自分の体にはいくつもの管が通され、不要な体液を排出する管、痛み止めや薬を投与する点滴の針が刺さっていました。
しばらくの間は、動くたびにそれらが煩わしく、我慢するしかありませんでした。
 入院中の治療も、想像以上に辛いものでした。
「こんなに辛いなら、手術なんてしなければよかった」——。そう、同じ病室の患者さんに漏らしたこともありました。しかし、中にはがんが転移していて手術を受けられない人がいます。「手術が受けられるのは幸せだよ」と教えてくれる方もいました。「手術しなければよかった」——なんて言葉を手術が受けられない患者さんに対して言う言葉じゃなかったとひとしきり反省をするしかありませんでした。その時から私は「手術ができて運がよかったんだ」という考え方に切り替えることができました。
 それからは、リハビリで歩行訓練を重ね、少しずつ体力を取り戻していきました。
 そして、生活に支障がないレベルまで回復し、40日間の入院生活を終えることができました。

退院後の新たな現実
退院後の今の身体は、食が細くなったことで体力が落ち、健康だった頃とは違い、体重も減りました。切除してつなげた部分からくる内臓の違和感や苦しさも、常に付きまとっています。
「いつかはこの辛さがなくなるのでは」と期待し、担当医に尋ねましたが、「個人差があるから…」「傷口はどうしても固くなるから…」とはっきりしない答えが返ってきました。
どうやら、この辛さとは付き合いながら生活していくことになるようです。

それでも朝は来る
 それでも朝は来る。一日は始まる。だから今日も、過去の悲しみも、身体の変化も、すべて受け入れながら——。
 「手術を受ければ元の健康な身体に戻れる」——そんな安易な考えから、私は自ら積極的に手術を担当医にお願いしました。しかし、もし手術を選ばなかったとしたら、担当医はどんな判断をしたのだろう。
 将来への不安や、「自分には生きている価値があるのか」という問い——そんな思いが頭の中をぐるぐる巡っていたとき、私は心理学にたどり着きました。

心の支えを見つける
 勉強を始めると同時に、カウンセリングを受け、自分の中に溜まっていた思いを言葉にすることで、心が軽くなるのを感じました。長い間閉じ込めていた悲しみや辛さが、涙となって流れ落ちることもありました。それでも、ふと虚しさに襲われることがあります。思うように動けないもどかしさや、かつての自分との違いに戸惑うこともあります。

生きているということ
 それでも、生きています。
生きているからこそ、痛みや辛さを感じることもあります。でも、それは「まだ歩いていける」という証なのかもしれません。ただ、一人で抱え続けるのはとても苦しいことです。
もし、心の中に言葉にならない思いがあるのなら、一度カウンセラーに話してみませんか?

 カウンセリングは、悩みを解決するためだけの場所ではなく、自分の気持ちを整理し、心を軽くするための時間でもあります。どんな小さなことでも大丈夫です。「こんなこと話してもいいのかな?」と思うようなことでも、あなたの気持ちを大切に受け止めてくれる人がいます。

 思いを言葉にするだけで、少し前に進めることがあります。
どんなに小さくても、今日できることを積み重ねていきましょう。

ゆっくりでも、確実に前へ進むために。

 もし今の自分にできることがあるとすれば、それは「誰かに話してみること」かもしれません。
 あなたの心に寄り添ってくれる人が、きっといます。